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新説、司馬江漢・三囲景の源流(5) もう一つの起源

<天明3年版>「三囲景」の制作に当たって江漢が参照したと思われる作品があることについて、すでに一つの説が提出されている。その参照作品とは、歌川豊春(1735-1814)画「浮絵 三廻之図」。僕は、この江漢論を書き始めた時には、そういう説があることについて、論の最後に簡単に触れておけば十分だと思っていた。
ところが、記念のために日付まで記せば10月8日、その豊春の絵が思いもよらぬところに出現し、あまりの偶然にやはり何かが影で動いていると不気味な予感に震えることになった。その豊春"事件”とでもいうべき出来事については引き続いて書くつもりでいるが、そのためにはどうしても、その豊春の絵と、また、江漢作品との関連について紹介するところから始めなければならない。
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歌川豊春「浮絵 三廻之図(うきえ みめぐりのず)」。1764年~72年(明和年間)頃。24.7x37.3cm。多色木版。写真は、『原色浮世絵大百科事典第3巻』(大修館書店1982年刊 p.244)から。東京国立博物館サイトにも図版写真あり。

豊春「三廻之図」と江漢「三囲景」との関連について触れる研究は3つある。その最初の指摘は、1990年代の初め、ほぼ時を同じくして2人の研究者によってなされた。

岡泰正著『めがね絵新考』(筑摩書房 1992年刊)は次のように述べる。(以下引用文中下線部はすべて引用者による。)
江漢が眼鏡絵と反射式覗き眼鏡をセットにして「案出しようとしたねらいの背後に、輸入された西洋製反射式のぞき眼鏡と、銅版眼鏡絵の江戸での流行があったこと」、また、「その流行の中に京都製の肉筆あるいは木版による」それらがあったはずであること、そしてその「最も大きな要因は」「輸入品や京都製眼鏡絵を換骨奪胎して精度の高い遠近法を用いた木版色摺による名所絵」の流行であったとして、その例に「歌川豊春、北尾政美らによって作画された質の高い浮絵」を挙げる。
江漢銅版画出現の美術史的背景をこうして明らかにした後、江漢の<天明3年版>「三囲景」は、「モティーフや基本構図は豊春の木版の浮絵によっている可能性がある」とし、手彩色のスタイルが「手本」となった西洋銅版眼鏡絵の影響をうけているのは言うまでもないが、銅版眼鏡絵に挑んだ江漢のパイオニアとしての自負が背後に脈うっているように思える」と書き、今問題にしている2枚の作品図版を並べて江漢が豊春に依拠するその「可能性」の高いことを示唆している。(p.130-2,141)

ヘンリー・スミス著『浮世絵にみる江戸名所』(岩波書店 1993年刊)は、その序論部分で江戸風景版画史をこう略述する。
それまでの「大和絵風の江戸名所に劇的変化をもたらしたのが、「浮絵」とよばれる新しいタイプの一枚絵に突如として現れた遠近法」であり、1740年代の「浮絵」の「ブーム」が一時沈静化したあと、1760年代に「歌川派の祖、豊春によって活気が取り戻された。」この頃の「遠近法は、建物に加えて自然の景色を描くのに用いられ」、「1765年に始まった錦絵という多色摺りの技法」が美しい浮絵をうみだすことになった。1770~80年代になると、「新しい西洋絵画の影響がもたらされ」、「なかでも1783年に三囲の風景を日本で最初の銅版画に描いた司馬江漢は江戸風景版画に決定的な影響を与えた」とする。その上で18世紀後半の風景版画の代表者として、豊春と江漢の名前だけを挙げている。(「総論」p.6)
30あまりの江戸名所とそれを描く浮世絵を紹介する本編には、もちろん三囲も入っている。まず、豊春「三廻之図」を大きな図版で掲載し、「名所絵としてはもっとも早い時期に描かれたこの豊春の三囲には、川の上流の美しいパノラマが展開されている」とし、その絵の細部を解説したあと、江漢をとりあげ、「司馬江漢の天明3年の絵は」「視点のとりかたは豊春に近い。しかし、土手は遠近感を出すために滑らかにすっきりとした大きな曲線で処理されている。よしず張りの茶店の向こうの、二本の木の間に立つ鳥居はうっかりしていると見落としてしまいそうだ」と続けている。(「三囲」p.38-41)。

この2人の研究者の、豊春と江漢の関連を示す直接的な言及は、前者が、江漢作品は「モティーフや基本構図は豊春の木版の浮絵によっている可能性がある」と言う一行のみ、後者は「視点のとりかたは豊春に近い」と述べる一節だけであって、ともに極めて短くかつ慎重であって、その指摘は「うっかりしていると見落としてしまいそうだ」。岡の著書は日本における遠近法の受容の歴史を眼鏡絵を通して追うものであるし、スミスの本は江戸を描く浮世絵を名所別に整理して浮世絵の新しい楽しみ方を提案するものであるから、ともに、豊春と江漢の関連をこと細かに分析することを課題にしているわけではない。それ故、その指摘は短いものにならざるを得なかったと言えるが、豊春と江漢の作品から受ける印象のあまりの違いが何かそれ以上の断定をためらわせたようにも思える。

江漢がいかに多くを豊春に負っているかを、前2者に較べれば遥かに強力に主張するのは、次に紹介する大久保純一著『広重と重人浮世絵風景画』(東京大学出版会 2007年刊)だ。大久保の江漢を取り上げる文脈は、「江戸名所を主題とした江漢の銅版画が、一般にいわれているように浮世絵の風景画に多大な影響を与えたというよりも、むしろ豊春らの浮絵から与えられたものの方が大き」く、その「影響力が、具体的事例の乏しさにもかかわらず」「過大評価されてきたきらいがある」として、江漢の江戸風景版画の詳細な検討を試みるというものであるから、力が入るのは当然だろう。大久保の考えを聞こう。
江漢の「三囲景」とこの豊春の浮絵は、「向島付近の墨堤から隅田川を上流へと望むという視点の取り方が共通している」ばかりか、「細部のモティーフに目を向けると、三囲稲荷の裏参道と石鳥居、今戸の瓦焼きの煙、そして最遠景に置かれる筑波山など、この地の景観をいささか説明的に示している諸モティーフの配置具合までもが共通している。つまり、「三囲景」は「浮絵三廻之図」の画面のほぼ左三分の二を銅版画に移し替えたものとさえいえ、江漢が先行する豊春の図像を参照したと考えるのが自然であろう」。江漢銅版画の「視点の高さも、名所景観の説明性に配慮した「浮絵三廻之図」の俯瞰的視野を意識したためと考えるのが適当と思われる」。<天明7年版>「三囲之景」も「景観をとらえる視線や諸モティーフの扱い方は、やはり「「浮絵三廻之図」の延長線上に位置づけられる」として2作品の比較を終えている。(p.244-5,249)。[注]

江漢は豊春から様々なモティーフ(=僕はずっと”アイテム”といってきたが)と構図または視点(川の上流を望む視点と俯瞰的視野)を借りてきているという説は、岡によるその「可能性」の指摘とスミスによる「視点のとりかた」が「近い」という指摘から始まったが、大久保によって江漢は豊春を「参照し」「意識した」とほぼ断定されるに至った。僕は、岡とスミスの指摘に異論はないが、大久保が新に付け加えた指摘には納得できない部分がある。

なぜなら、大久保には一言も触れようとしないもの、彼の目には見えないのかそうでなければ故意に言い落としているものがあるからだ。それは、江漢「<天明3年版>三囲景」が持つ魅力の源泉であり、この作品が観る者に与える驚きの中心であり、この作品最大のモティーフでもあるもの!そう、それは、池のように見える円い川、だ。
豊春作品においてまず目を引く蛇のようにくねる土手と、それとはあまりにも対照的な江漢の「滑らかにすっきりとした大きな曲線で処理されている」土手についても一言も触れない。それに触れては、江漢の豊春依拠説が弱々しくなってしまうからだろう。
江漢が他の誰かの作品を「参照し」「意識した」とすれば、それに豊春を含めることに僕も異論はないが、円い川と滑らかな土手と大きな空は、江漢が豊春以上にもっと大きく依拠した作品があったのではないかと予想させるものだ。それがサーンレダム「スパールネ川」だろうということについて僕はすでに詳しく述べた。

さらに、江漢「三囲景」は豊春「浮絵三廻之図」の「画面のほぼ左三分の二を銅版画に移し替えたもの」という指摘も、その卓抜な言い回しに思わず納得させられてしまいそうになるが、なぜ江漢がそうしたのか、その理由について追求されるべきだと思う。なぜなら、江漢は豊春作品の三分の二を占める三囲社参道を中心とする構図を選ぶこともできたはずで、「三囲」と題する作品ならばなおさらいっそうそうすべきだったからだ。豊春作品においてはむしろ周縁部である隅田川を遠望する構図をなぜ江漢が採用したかについて大久保はまったく触れない。
画面の右三分の二において大鳥居から参道、山門、社殿にいたる三囲社の全景を描く豊春の「三廻之図」は、その題名にふさわしい「諸モティーフ」と「構図」を備えている。参道近くの、絵では正面の牛御前宮、江漢は省略したが大きな茶店、参詣する多くの人物、水田とそれを耕す人など、三囲社付近の様子が生き生きと描かれ、それは豊春得意の一種の風俗図の性格も帯びた名所絵となっている。
ところが、江漢作品は題名こそ「三囲景」とはなっているけれど、三囲社の存在は、ただ最も手前に描かれているという理由だけで題名に採られたような気配さえするほど、他の多くの「諸モティーフ」のひとつとして扱われているに過ぎない。社殿は描かれず、そのシンボルたる大鳥居でさえ「うっかりしていると見落としてしまいそう」なありさまだ。江漢「三囲景」の主題は、三囲社というよりも、向島から見た隅田川遠望に変化しているのであって、「三囲」名所絵としてその名に値するかどうかさえあやういといってもよいくらいだ。
なぜ、そうなったか。江漢は三囲社を描くことよりも、池のように円い川を描くことに遥かに強く興味を惹かれたからだと答えたい。その円い川の源流、つまり、サーンレダム「スパールネ川」のインパクトはそれほど強烈だったと。



大久保著書においては、さらに3枚の江漢作品における、豊春作品との「図様」と「視点」の「酷似」あるいは「近似性」がを取り上げられているが、その詳細は今回の論と直接関係しないのでこれ以上触れない。「三囲景」を別にすれば、これら3枚の江漢作品が豊春の構図をほぼ踏襲している、とする大久保の議論は説得力をもつものであって、僕は大いに啓発されたことは付け加えておきたい。ただ、その本の中では、その3組のうち、1組しか図版が揚げられいないうえ、豊春作品は、ネットでも図書館でも、書店でも、なかなか見つからないので、一部モノクロかつ不鮮明ですが参考までに次に掲載しておきます。

以下の豊春写真①②は大英博物館 British Museum サイトから③は大久保著書からです。
江漢は①はhttp://homepage2.nifty.com/tisiruinoe/enkinho.htmlから②は「司馬江漢の絵画」(府中市美術館)から③は大阪府立中之島図書館サイトから、それぞれ引用しました。ネットから引用したものは、そのサイトへいけばすべて鮮明で大きな図に拡大して見ることができます。


①左・豊春「新板浮絵忍ヶ岡之図」 右・江漢「不忍池」1784年
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②左・豊春「浮絵深川永代涼之図 」 右・江漢「中洲夕涼」1784年頃か
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③左・豊春「浮絵両国夕涼之図」 1770年頃 右・江漢「両国橋図」1787年
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豊春画の制作年記載のないものは1764~1780年(明和~安永)頃。江漢画はすべて左右逆転図。
by espritlibre | 2009-10-12 22:09 | L歌川豊春
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