人気ブログランキング | 話題のタグを見る
9月下旬から12月中旬までのおよそ3カ月足らずの間、何かに憑かれでもしたかのように夢中になって記事を書いてきた。最初はたった一つ記事を書いてみようと思ったにすぎなかったのに、次々と起きる偶然が鎖のようにつながって予想もしない長さになった。それらの偶然のつらなりは、振り返ってみると、そもそも何か得体の知れないものが導く必然の輪の中に組み込まれていたようにも感じられる。その連鎖の不思議さゆえに、これは僕にとって一種の“神秘体験”だった。
今から書こうとしている、そんな個人的な“体験”報告がどれほど読者の関心を引くものか大いに疑問だけれど、しかし、翻って考えてみれば、あなたが今までの記事をたとえ一部であったにせよ偶然読んでくださったとすれば、すでにあなたもまた、この偶然の輪の中にそれと知らず入り込まれていたわけで、すでに”得体の知れないもの”は僕とあなたの二人を偶然の撚りなす糸として必然の織物を織っていたことになりはしないか。

9月13日(日) 図書館で、たまたま新刊書の棚に置かれていた見知らぬオランダの画家の評伝を借りる。その本の見返しに使われたサーンレダム画「南からハールレムに流れ込むスパールネ川」が、江漢画「三囲之景」にそっくりであることに驚く。少し調べたがその類似を指摘している論文は見当たらなかった。僕の思いすごしか。この段階ではブログの記事にしようなどという考えは浮かびもしなかった。

9月22日(火・祝) 友人から、僕のブログにコメントを書いたのにレスがないのはどうかしたの?という意味になるメールをもらい、何カ月かぶりにこのブログを開けて、1か月前にくれていたそのコメントに気付く。
9月19日から23日までは5連休だったから気分もゆったりしていた。ブログを開けたついでに、思い切ってサーンレダム画と江漢画の類似について丸一日かけて記事を書く。記事を書いたのはほぼ半年ぶり、友人がメールをくれなかったら?たぶん、この連載記事は始まらなかったと思う。

9月30日(水) 江漢について調べれば調べるほど、西洋遠近法の習熟度で絵の価値が決まるとでも言いたげな解説ばかり読まされて、だんだん腹がたってくる。美術史家は歴”史”に気をとられて、肝心の絵を見ていない、江漢「三囲景」の”円い隅田川”は遠近法の未熟によるものだとして全然評価をうけていないことに特に反発。それがいいとこじゃない、それが江戸の洋風画の出発点じゃない、それが江戸の民衆に受けたんじゃないと思い、ここは江漢のために一肌脱がなきゃと思い続編を書くことに決める。豊春画「三廻之図」との類似を指摘する論はだいぶ前に読んだのを覚えていたので、それも最後に書くつもりでいた。

10月4日(日) ”捜査”の基本は現場だ、と思い、何年かぶりに三囲神社やその付近を歩く。今思えば、この三囲神社訪問のときに何かが動いた。

1935年9月2日夜、藤牧は所属する新版画集団の事務所も兼ねていた小野忠重の自宅(当時・本所区小梅1-7、現・墨田区向島3丁目)を訪ねた後、行方がわからなくなった。
今その詳細を書いていては、また新たに10回くらいの記事になってしまうので、ただ次の点にだけ触れる。その最後に会った人物・小野忠重が戦後になって喧伝するようには、当時、藤牧は貧困でもなく(彼は才能あるグラフィックデザイナーだった)、肺病でもなく(誰でも風邪くらいはひく)、孤独でもなかった(版画や美術の世界の多くの先輩や友人との交流があり、近所にある3人の姉たちが嫁いでいる家にしばしば立ち寄っている)。藤牧には失踪する理由も、自殺する理由もなかった。藤牧はその日、亡くなったと僕は信じている。

この日(10月4日)僕は、三囲神社を訪ねたついでに、そこから近いはずの小野忠重の旧宅跡を訪ねてみようと思った。今まで行ったことがなかったから、ちょうどいい機会だと思った。
そこは、三囲神社からまっすぐ西に延びる道を200メートルほど行ったあたりのはずだった。おそらくここだなと思うところにすぐ行きついた。もちろん今は建物も住んでいる人も違うが、そこの写真をとり、それから、ふと、来た道を振り返った。そのときだった!まっすぐ東に延びた道の果てから目に飛び込んできたのは、三囲神社の森だった。そうか、藤牧がこの世で最後に見たものは、三囲神社だったのか。ほとんど確信にも似た溜息が口をついて出た。

そのとき、なにかが動いたのだと思う。いい年した大の男が何を言ってるの?と正気を疑われそうだが、このとき藤牧に呼ばれたのだと今になって思う。そのとき僕自身は、その後の展開をまったく予感もしていなかったけれど。

10月8日(木) 銀座に用があって出かけた帰りに、「かんらん舎」に寄る。
このときの展示は「藤牧義夫講座(2)」と題して、『絵巻隅田川』のほぼ原寸大複製と絵巻制作中の作画をもとに作られた版画3点を並べるものだった。前月の終わりごろに案内状はもらってはいたから、そういう展示であることは行く前から承知はしていた。しかし、正直なところ、それを目当てに立ち寄ったというわけではなく、もっとも正確な理由は、近くまで行ったからなのだった。
展示されている絵巻にも興味があったというわけではなく、話ついでに手持無沙汰、何気なく広げてみただけのことだった。その時だ。いきなり、豊春「三廻之図」が出てきた!
これは、いったい、どういうことだ、藤牧はこの絵を絵巻に貼り付けていたのか!
その発見はまさに衝撃だった。絵巻をちゃんと見ようとしない僕を、藤牧がここに呼び出して、ほら、ちゃんと見てよ!と言っているのに間違いなかった。

それでも僕はこの発見を記事にできるとは思わなかった。だって、そんなことを発表したからといって、いったい誰がおもしろがってくれるだろうか。
そもそも、藤牧絵巻の全巻が広げて展示されたことは、ただの一度しかなく(それも10年以上前)、複製だって20年以上前に雑誌に掲載されたきり。ほとんど知られておらず、かつまた、それを見ることも容易でない作品について論じて読者が興味をもってくれようとは思われず、ましてや、そこに豊春が貼られていたと書いても、まったく意味不明の論になってしまうだろう。その重要性など伝わるはずがない。
僕は、むしろ豊春「三廻之図」の何が藤牧を惹き付けたのか、そこを調べてみるのに10月一カ月を使った。

11月1日(日) 豊春の墓を東池袋駅近くの本教寺(豊島区南池袋2-41)に訪ねる。そこは、学生時代の親友が住んでいたアパートの隣だった。つまり、いったい何度行ったか知れないほど、よく知った場所だった。かつてよく訪ねたそのアパートは今はもう取り壊されていた。その日、まさにその親友から3年ぶりくらいに電話がかかってきたときには、宇宙の神秘すら感じた。
さて、そこで写真をとったあと、ぶらぶらと池袋方向に歩いた。百貨店だった建物のあとに大きな電機量販店が開店していた。僕のパソコンは10年近く前に買った98ウィンドウズ。外装ボロボロはしかたないとして液晶画面がときどき砂嵐のように乱れるようになったのには閉口していた。やっぱりもう買い替えるしかないかと気になっていたので、まあ値段だけでもしらべるつもりでその真新しい店に入った。出てきたときには一台手にしていた。

11月3日(火・祝) パソコンの設定をやる。やっぱり新しいのはいいな、こんなこともできるんだあ、すごいなあ。そうしているうちに、僕は動画を作ることができるのに気付いたのだった。動画ねぇ、でも僕には使い道がないな。何を撮るの?

11月8日(日) 藤牧絵巻を動画に撮る、というアイディアを思いついた時には、自分ながら感心した。絵巻を写真に撮ってアップするなんてとうていできようはずがない。長すぎる。でも、動画なら簡単だ。そもそも絵巻のたぐいを動画にした人なんているのだろうか、ひょっとして世界初?
とはいえ、完成した動画はお粗末もいいとこ。それでも、とにかくこれで、絵巻を紹介することができる。つまり、今回の豊春発見”事件”を記事にできることになったわけだ。開店したての電機量販店の安売りとの遭遇のせい?でも、豊春の墓から電機屋へ僕を導いたものは、それもやっぱり得体の知れぬ何者か、なのだろう。

僕はこうして偶然に偶然を重ねながら、サーンレダムの一枚の絵から出発して、サーンレダム+司馬江漢、江漢+歌川豊春、豊春+藤牧義夫という三つの輪をほぼ3カ月かけて廻ってきた。その三つの輪はすべて「三囲」という土地を巡って連なっているからには、それは「三囲」の地の精霊のたくらみか、はたまた、三囲稲荷のおきつね様のいたずらだったか。そもそも「みめぐり」というからには、最初から、三度はそこを廻らねばならない必然だったのかもしれない。

そして、結局、僕の論が藤牧絵巻についての論として収束するにおよんで、ここに何とも奇妙な類似が生じているのに気がついた。僕は自分の論を藤牧の絵巻と比べようというのではない。片や、近代日本美術におけるまぎれもない傑作であるとすれば、片や、書いた端から消えていく泡沫のごとき文章の断片に過ぎない。
藤牧は9月半ばから絵巻の制作にとりかかり、11月中、遅くても12月中にはその絵巻3巻(もしくは4巻)を完成させた。最初の構想からは思いもかけない展開を見せたのは、制作途中での豊春「三廻之図」との偶然の出会いによる。
僕もまた、藤牧から75年後、9月半ばに一枚の絵と遭遇、藤牧に行きつくなどとは思わぬまま記事を書き始め、12月12日に藤牧絵巻についての論を書き終えた。その途中での最大の事件は、豊春「三廻之図」が藤牧絵巻に貼られているという発見だった。
75年の歳月を隔てて、藤牧絵巻について論じる行為が、藤牧が絵巻を描く行為をそれとは知らず模倣していたということに、ただただ驚くばかりだ。

さて、最後にもう一度最初に戻ってサーンレダム「南からハールレムに流れ込むスパールネ川」。そこに描かれていたスパールネ川の向こうに広がるハールレムの街の風景は、江漢「三囲(之)景」ではきれいさっぱり削り取られてしまったが、その削り取られた都市風景は、それから150年後、藤牧によって絵巻の中に創造された、と書いてサーンレダムから始まり藤牧に終わったこの円環をひとまず閉じておきたい。

-------------------------------------------------------------------------------------------------
多くの偶然のうち、しかし、もっとも驚くべきできごとは、かくも地味なテーマを拙劣な文章で綴った記事にもかかわらず、信じがたいほど多くの方が来てくださったことだ。あなたが読んでくださったおかげで藤牧についての小さな発見ができた、ありがとうございました。
藤牧義夫『絵巻隅田川』』と豊春『三廻之景』を探る旅もついに終着点にたどりついたようだ。両者の関係を探る試みは今までなされたことがなかったが、絵巻に貼られた一枚の浮世絵の「発見」によって絵巻の謎をいくつか解き明かすことができた。要点をまとめておこう。

1.『絵巻隅田川(三囲の巻)(白鬚の巻)』は、豊春『三廻之景』にその画のテーマを負っている。『三廻之景』を地図とも設計図ともして、その画中の景物を絵巻に移し取ったものである。三囲神社から始まり、白鬚橋に終わるひとつながりの作品として構想され、かつ連続して描かれ、そして完結している。

2.絵巻成立過程は次の通り。その単調さと平板さからみて「相生橋の巻」が最初に描かれた。隅田川風景を絵巻にする計画はそこで一旦放棄され、代わって「申孝園」を画題とする巻が描かれ、それは続巻を予定して「第一巻」と記された。その直後、『三廻之景』を偶然入手、再び隅田川風景を主題とする絵巻が制作された。『絵巻隅田川』と題されたその絵巻は、完成後、「白鬚の巻」と「三囲の巻(仮題)」という2巻に分けられた。

3.『三廻之景』における低い視点からの透視遠近法と高い視点からの俯瞰遠近法の共存・並を、藤牧は絵巻において巧みな視点移動に利用した。

最後に、藤牧絵巻についての基礎的データーをまとめておこう。

1.作品データ 【作品名】は筆者による仮題

①【絵巻・相生橋の巻】27.5x1440cm 。紙本墨画。館林市立資料館所蔵、旧・題名『隅田川両岸画巻 第4巻』、現・題名『隅田川下流図絵巻』。1934年9月頃制作(推定)。

②【絵巻・申孝園の巻】「第1巻」25x1379cm。紙本墨画。東京都現代美術館(旧・東京都美術館、以下同じ)所蔵、『隅田川両岸画巻 第1巻。描かれた場所が不明だったが、1987年申孝園であることが判明。1934年9月~10月制作。

③「絵巻隅田川」【三囲の巻】28x1607cm。紙本墨画。東京都現代美術館所蔵、『隅田川両岸画巻 第3巻』。1934年10月~12月頃制作(推定)。

④「絵巻隅田川・白鬚の巻」28x1624cm。紙本墨画。東京都現代美術館所蔵、『隅田川両岸画巻 第2巻』。1934年10月~12月頃制作(推定)。

2.展示履歴

藤牧生前には公開されることなく3軒の親戚宅に預けられていたが、1978年「かんらん舎」で開かれた「藤牧義夫遺作展」準備の際、”発見”された。まず、1977年③④がK氏から、つづいて②がN氏から、その後1979年に①がO氏から、出された。制作から40年以上が経過していた。

1980年 7月31日~8月10日 科学技術館(東京・北の丸公園)<水の週間> 「東京の川展示会・隅田川コーナー」で②③④が初めて展示される。

1988年 4月9日~6月5日 東京都美術館 「1920年代 日本展」 ③④が展示。愛知県美術館、山口県立美術館、兵庫県立美術館に巡回。東京都美術館が1978年に②③④の3巻を購入したのち、この展覧会まで美術館での公開はなかった。購入後10年が経過していた。

1995年 10月14日~11月19日 館林市立第一資料館 「生誕85周年記念特別展 藤牧義夫ーその芸術の全貌」展 ①②③④が展示される。

1996年 7月24日~9月16日 東京都現代美術館 「近代都市と芸術」展 ③④が展示される。

1997年 4月12日~6月1日  目黒区美術館 「気まぐれ美術館ー洲之内徹と日本の近代」展 ②③④が展示される。兵庫県立美術館、成羽町美術館、愛媛県立美術館に巡回。

1998年 5月17日~6月28日 神奈川県立近代美術館 「モボ・モガ展」 初めて(!)①②③④全巻を広げて展示される。前期・後期の2回に分けて2巻ずつ。それまでの展覧会はすべて絵巻のわずかな部分だけを開いての展示だった(1980年の展示については不明)。シドニーに巡回。

《追記》
2010年 9月22日~11月14日 江戸東京博物館 「隅田川 江戸が愛した風景」展 ③④が一部のみ開いて展示。

2011年 7月16日~ 8月28日 群馬県立館林美術館 「生誕100年 藤牧義夫」展 ③④が前期(8月7日まで)、①②が後期に、ともに全巻広げて展示される。 2012年1月21日~3月25日 神奈川県立近代美術館に巡回。


3.複製履歴

季刊『すみだがわ』6号~9号 1980年7月~1981年4月 隅田川クラブ ①②③④全巻の写真版と解説を付す。絵巻についてのもっとも早い研究。墨田区立緑図書館で閲覧とコピーが可能(なはず)。僕の動画はこの写真からの複製。

『別冊太陽』No.54 1986年6月 「モダン東京百景 特別企画=藤牧義夫「隅田川絵巻」」 平凡社 定価2000円。①②③④全巻の写真版と洲之内徹による解説を付す。前者より写真図版は大きく、かつ鮮明。ただし、画の縮尺が一定でない。図書館はもちろん、古書店での入手もまだ難しくないようだ。

4.藤牧絵巻についての参考文献
上記3であげた文献につきる。野口富士夫『相生橋煙雨』(文芸春秋 1982年刊)もまた、藤牧と絵巻について触れているけれど、それが作り出す藤牧像は先入観と偏見によって歪められ、絵巻もその藤牧像に合わせて解釈されている、と僕は思う。その理由は、この連載記事の(4)に書いた。
# by espritlibre | 2009-12-12 02:47 | L藤牧義夫
さらに、何を描くか(=主題)という点において、藤牧は豊春画『三廻之図』から決定的な手がかりを与えられたと僕は思う。描くべきものを藤牧は豊春画から直接受け継いでいるからだ。どういうことか、順に説明しよう。

僕は藤牧がなぜ豊春画『三廻之図』を絵巻に貼り付けたのか、最初その理由がまったくわからなかった。二人の絵から受ける印象はあまりに違うからだ。視点の移動などということは、あとから研究してわかっただけのことで、最初はそんなことは思いつきもしない。まず、よりによってなぜ豊春なのだろう、という素朴な疑問で頭がいっぱいだった。

ところが、豊春画『三廻之図』にはいったい何が描かれているのだろうと、思いつくまま前景から順に、口に出して挙げていったときのことだった。
「まず、三囲神社本殿から始まって、それにつづく社殿奥、それから裏門、お約束の大鳥居。そのまま左に目をやると、対岸はこちら側に大きく張り出してきていて、そこに今戸の景色。川を渡ってこちら側に戻って、牛御前宮、屋根だけが見える弘福寺、その裏には木々に隠れてしまった長命寺。そこで道は直角に曲がる。そのあと、ところどころに木々が植わってはいるが比較的単調な道がゆるやかに白鬚神社まで延びて、その先もう少し上流に上ったあたりで道は見えなくなってしまう、、、」
そのときだった、突然、まるでダイナマイトが爆発したかのようにドカン!ああ、なんということだろう!僕は、そんなつもりはまったくなかったのに、いつのまにか藤牧の絵巻に何が描かれているかを説明しているではないか!

もう、読者もお気づきの通り、藤牧は、豊春画『三廻之図』を自らの絵巻を描く地図とし、また、設計図とし、その描かれたものをそっくり絵巻に移し取っていたのだ。豊春画を前後に長~く引き伸ばした、といってもいい。藤牧が豊春画『三廻之図』を初めて見た時に惹きつけられたもの、それは豊春描く隅田川景物であったに違いない。ここを描けばいい!

豊春画『三廻之図』と出会う直前の藤牧の状況を思い出してほしい。《隅田川プロジェクト》は放棄され、これからは《申孝園プロジェクト》を続けようと考えていたのだ。《隅田川プロジェクト》失敗の原因は、此岸から見える対風景を描くという視点に終始してしまったことにある。しかし、それ以外にいったい何をどう描けばいいのか?
たとえば、現代東京を連続する画面で後の時代に伝えようとしたときに、あなたは一体何を描くだろうか、それをどう描くだろうか。林立する高層ビルの威容?ゴールデン街の夜のあかり?渋谷スクランブル交差点の雑踏?商店街の賑わい?工事中の東京駅?神田川の深い堀?皇居?公園?でも、それが東京?
藤牧は隅田川を描きたいと思っていたが、そこには無数の景物が広がっているのであって、ただ、それらを見えるがままに描いても作品にはならない、ということを「相生橋の巻」で痛感していた。

そこに、豊春画『三廻之図』が突然舞い降りてきた。藤牧は、そのとき、再び《隅田川プロジェクト》にとりかかるためのほとんど勇気にも似た大きなヒントを得た。此岸と対岸を往還し、豊春の描いたように三囲神社から白鬚神社とその先の白鬚橋までを描く、というアイディアが生まれた。それ以降の藤牧の試みについては既に詳述したので、繰り返さない。

藤牧にとって、豊春画『三廻之図』との出会いは、表現においてよりも、主題においてはるかに強烈に作用したと僕が言うのは以上の理由だ。たとえば、もし、藤牧が出会った絵が、同じ豊春でも『三廻之図』以外の作品だったらどうなっていただろう?豊春の視点移動をおもしろく思い、《申孝園プロジェクト》の中に生かしたかもしれないが、名作『絵巻隅田川』が生みだされることはなかっただろう。つまり、藤牧とは、あの豊春の「まがりくねった道」を実際に歩いて行った男にほかならない。
# by espritlibre | 2009-12-10 18:19 | L藤牧義夫
←menu