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だれに頼まれたというわけでもないが、館林での藤牧展へ行かれる方のために会場までの道案内を。
僕は北千住から東武伊勢崎線で、「館林」の一つ先「多々良」まで行き(所要時間80分~90分、860円)、そこから館林美術館まで15分歩いた。東京からは、車でなければこのコースが最も安価かつ所要時間も比較的短い(はず)。
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日曜のお昼過ぎだったが、この駅で降りた人は僕の他に1人だけだった。
多々良駅を出たら、駅を背中に直進(南下)、国道(122号)まで出たらそこを左折、国道を歩いて稲荷町交差点を右折。あとは、ただひたすら道沿いに、美術館の案内板が出てくるまで歩く。
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美術館までの途中、車以外人にはただの一人も会うことなし。こんな道の先に美術館があるのかなあ。
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川の向こうに工場みたいな建物が見えてきた。あれが美術館か。
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美術館外観。水に浮かんでるってふうに見せたいんだろうか。
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美術館内部。外は直線、中は曲線で構成してるってところがミソなんだろうな。
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美術館の前。風に緑なす稲の葉が揺れる。北関東の典型的な風景。僕は大好きだ。
この空と大地を放射能で汚すな。
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フランクフルトがなってるこの植物の名前は何て言うんだろう。(翌日調べたら、ガマ・蒲というらしい。コガマかもしれない。)
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上と同じく美術館のそば。
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美術館から南へ続く遊歩道。
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遊歩道の横を流れる多々良川には白鳥の一家が。子どもは灰色だなんて知らなかった。いや、いや、、そうか、これが「醜いアヒルの子」なのか。
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遊歩道の終点が多々良沼。美術館から1キロほど。沼を横切るのは、釣り客用の長い桟橋。
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桟橋。
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さらに桟橋。長い。長すぎる。
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日も暮れる。
外見に対する好悪の判断に人は1秒もかかからないのだそうだ。絵画作品の好悪もまたそうだ。すばらしいと思う作品は、見た瞬間、目と心を打つ作品だ。そうでなかった作品は早晩忘れてしまう。記憶にも残らない。いいと思った作品が、時間が経つにつれて自分の中で評価がだんだん低くなる場合がないわけではないが、その逆はない。最初はつまらないと思ったのに、あとから好きになったというような作品は僕には思いあたらない。

栃木市内を歩き始めて、まもなく、博物館として公開されている大きな門構えの旧家に行き当たった。岡田記念館、とある。入場料700円。たじろぐ値段だが、ここを素通りすると他の旧家も素通りすることになる、ここが最初なんだからまずは試しに入っておこう、という気になった。
しかし、敷地内のいくつかの蔵に収められた「家宝」は鎧、陣羽織から香炉、蒔絵、はては食器、火鉢まで、いったいそれを見てどうする、といった類のものばかり。鉄斎、波山もガラスケースの中に鎮座ましましているが、旧家お好みの定番、とりたてて言うほどのこともない。そういえば、さっきからずっと周りに人はいない。やっぱりなあ。

置き去りにされた「女」(1)_a0023387_545972.jpgそのうち、門の横に「陽月亭」という札の立つ屋敷の前に出た。受付でもらった案内書には、この屋敷については一行も触れておらず、自慢の蔵があれでは、ここはもう推して知るべし。入るまでもないが、畳の部屋でもあればちょっとそこで休憩していこうと思い直し、門をくぐり、玄関の土間を抜けて、上がり框で靴を脱ごうとした瞬間、何かが目に飛び込んできた。誰かいる、薄暗い奥の間に。

僕はまっすぐその奥の間に進んだ。そこには、タテ1メートル半ほどの大きな絵が壁に立てかけるようにして小さな文机の上に置かれていた。描かれているのは、薪を背負う一人の若い女。この絵がそれだ。
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彼女の豊満で堂々とした肢体は小さめの労働着からはみ出さんばかり。画面の左から差す陽の光は、彼女の顔の右半分、両肩、胸、前に差し出された左腕、右太ももを明るく照らしているが、すでに黒く日焼けしたその肉体は、素焼きの土像のようにも見える。
卵型の女性像と三角形をなす薪、背景の丸みを帯びた山野。薪の作り出す模様とそれと一体化した女の着る服の大胆な文様。単純な造形の組み合わせとリズムカルな模様が織りなす構図が、この絵の力強さを支えている。
しかし、なによりも観る者の目を惹きつけるのは、その顔だ。まるで土俗的な仮面によくある内面的な表情は、エネルギッシュな肉体とは奇妙な対比を見せる。目と口は単なる黒い開口部と化していて、感情的な、あるいは個性的な表情を欠いているばかりか、人間的なまなざしを投げかけることもない。しかし、僕には却ってそれが、名もなき働く女性像にある種の神話的存在者としての面影を与えていると思う。人物表現において重要なのは個性を写すことなどではなく、個性など超えたところにある何かしら永遠なもの、宇宙的なものを感じさせる人物像の創造だとでも画家は言いたげだ。

さて、僕は他にも美術作品が置かれているのかもしれないと思い、この「陽月亭」という建物の中を隈なく捜した。岡田家は麻の加工・販売もしていたらしく、そのための大きな機具類がいくつも置かれていたが、その他には古い家具ぐらいしか見当たらない。この絵だけが、他の多くの「家宝」のようには蔵のガラスケースの中に入れられることもなく、まるでどこにも行き場がないかのように、ぽつんとこの建物に置かれているのだった。

上の写真を、正面からではなく、斜めから撮らざるをえなかったのには理由がある。天井からぶら下がる電球のために、正面から撮影すると額縁ガラスに光が反射して、絵の右上を中心に全体の半分近くが写らなくなってしまうからだ。そもそも、なぜ、絵を壁に掛けておかないのだろう、地震でもあれば倒れて壊れてしまいそうだ。(すでに大地震はあったのだけれど)。さらに、絵を詳細に見れば、絵具の小さな剥落、ひび割れが無数におきている。新聞紙に包まれて物置の隅で埃を被っているのよりはましだとしても、この絵がここで丁重な扱いを受けているとは到底思えない。

写真にも写っているとおり、この絵には木の名札が付けられている。「栃木市出身 清水登之画伯」。この絵を購入した当時のこの屋敷の当主は、この画家に対して尊敬の念を持っていたにちがいない。清水登之(しみず とし)は1945年に亡くなっているから、当然この絵は戦前のものだ。購入から70年か80年たって、画家と作品に対する敬愛は失われてしまったように思われる。古い屋敷に置き去りにされたまま、女は僕が来るのを待っていたのだろう。

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この記事は(2)を書きます。
# by espritlibre | 2011-07-04 01:55 | 美術
ときどき、知らない町を歩きたくなる。と言っても、あまり遠い所までは行きたくない。日帰りで行ってこれるような所なら、時間も費用もたいしてかからない。
僕は東京の北の方に住んでいるから、足は自ずと北関東に向かう。北千住から東武線、日暮里から京成線、この二つの路線に乗ることが多い。ときにはJRのこともあるし、つくばエクスプレスや舎人ライナーも終点まで乗ったことがある。
群馬、栃木、茨城、埼玉、千葉あたりの古くから続く町を、半日くらいかけて、ゆっくり歩く。それらの町は観光地としてはやや魅力が足りないと思われもしようが、東京からは失われてしまった江戸や明治・大正・昭和初期の建物や風物・伝統が、今なお現役で生きていることがあって、それらを見るのは感動的ですらある。

大消費都市、江戸・東京の近くでどうやって自分たちの生きる道を見つけるか、は北関東の町や村にとっての大きな課題であったように思われる。まず第一は農作物の供給だっただろう。しかし、養蚕による絹織物業、大豆による味噌・醤油などの食品製造業、材木を切りだしての製材業、良質の土を活かしての陶器の生産、雛人形・五月人形・だるまの製作等々、衣食住あらゆる分野にかかわる様々な産業を通して、それぞれの町が個性を発揮して発展してきたのであり、たいていは江戸時代から今も続くそれらの跡を見ることは、新鮮な発見にみちた旅にもなる。

大震災から2ヶ月ほどたった5月半ば、家にじっとしているのにも嫌気がさして、天気のいいのも幸い日帰り散歩に出かけることにした。今回の行先は、栃木市。学生時代に、川べりに蔵の並ぶ風景写真を見て以来ずっと気になっていた町だ。北千住で東武日光線に乗って「しんとちぎ」で降り、そこから日光例幣使街道を歩いて南下、「とちぎ」から帰る予定を立てておいた。滞在時間は5時間くらい。そこで思わぬ発見があったのだが、それを語る前に、まずは栃木市内の「名所」案内を、おおむね北から南へ、歩いた順に。
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正面にかかる暖簾には、「創業天明元年(1781年) 油屋傅兵衛 味噌・田楽」とある。通称・油伝(あぶでん)。最初、油屋として創業、のちに味噌の製造を始め、今も続く。このあたり(嘉右衛門町)には他にも味噌蔵がいくつかある。
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油伝商店の中。
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上の写真の内部。ここで、味噌田楽と焼餅を食べた。メニューはそれしかない。悩まなくてよい。
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栃木市の中心部。この建物は、この町出身の作家・山本有三の記念館になっている。江戸末期の見世蔵を改修したという。山本有三の「路傍の石」は小学生の時に読んだ覚えがあるが、その愛用品や自筆原稿には関心なく、素通り。
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流れる川は「巴波川」、「うずまがわ」と読む。難読度は最高ランク。ここが僕が学生時代に見た風景写真の場所だった。
左の延々と続く屋敷は、塚田家、今は、塚田歴史伝説館。塚田家は弘化年間(1840年代)から木材回漕問屋を営む豪商、巴波川から利根川を経由して江戸深川の木場まで筏に組んで材木を運んだという。
この塚田歴史伝説館には入った。屋敷内部の蔵の立ち並ぶ風景は、江戸時代さながら。人気テレビドラマ「仁」の撮影があったばかりだと言って、受付の人が写真を見せてくれた。
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巴波川を巡る遊覧船の船頭さん。たくみな話術で笑わせ、歴史を語り、最後は船頭歌まで歌ってくれた。
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前に流れる川は、同じく巴波川。建物は、横山郷土館。横山家は、麻問屋と銀行を営む明治の豪商。時間遅く、すでに閉館。
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200年ほど前に建てられた栃木市最古の蔵の一つという。現在は、とちぎ蔵の街美術館。月曜休館のため入れず。
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旧・栃木町役場、現・栃木市役所別館。大正10年(1921)竣工。設計は、町役場の技師として活躍した堀井寅吉。水色がさわやかで役場の固いイメージを和らげている。今なお、現役なのが、すごい。
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町の大通りに面した床屋。アール・デコ風。この町には、蔵だけでなく近代洋風建築もかなりの数が残っている。
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片岡写真館。創業は明治2年とある。建物はかつての栃木警察署を模したものらしい。


東京の中にいては、東京のことがよく見えないのではないか。
他の地域を圧倒する人口をかかえ、富と権力が集中し、あらゆる文化を楽しむことができ、あらゆる商品とサービスがカネさえあれば容易に手に入る所では、きたいないモノ、危険なモノは遠く、見えない所に追いやられる。原発の事故が起きるまでは、僕は日々消費する電気がどこから来ているのか気にも留めなかった。日本に50基以上もの原発が存在していることも知らなかった。まさに傍若無人、自らの繁栄と安全のみを求めて、遠く離れた過疎地にカネの力で危険を押し付けて平然としていた(いる)わけだ。
あとで取り消したとはいえ、大震災を「天罰」だと発言した作家も兼ねるらしい人物が知事を務め、被災者を愚弄する発言をした後にも、再選されてしまうような都市に住んでいることを大して気にもしていない。
拡大する経済力を盾にわが国を含む近隣諸国と軋轢を起こし続ける大国に苦々しい思いをしても、それと同じようなことを、東京はその周辺地域に引き起こしていることには気づきもしない。自らの欲望に取り憑かれて周りを見る余裕もない。他人のことを言っているのではない、それは、僕自身の自画像だ。
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