2010年2月6日付「朝日新聞」で絹田幸恵についての記事が掲載され、それ以降、ネットで検索されてここに来られる方が増えています。ところがYahooで検索されるとなぜかまったく無関係なこの記事がでてきます。ここクリックしてくだされば正しい記事がでてきます。



NHKテレビに「世界ふれあい街歩き」という番組があって、たまたま何度か見たことがある。行ったことのない街なら珍しく、たいていは行ったことがないけれど、行ったことがある街なら、なつかしい。
16日(日)の夜は、セビリアだった。観光客の行かないグアダルキビール河の西側の職人街から始まったその散歩の途中、パティオの美しい家に入ったスタッフは、そこに永川玲二という名前の日本人が最近まで住んでいたと知らされる。その彼が住んだ家の壁には、記念のプレートまで付けられていた。
永川玲二という名前は、アラン・シリトーやジョイスの翻訳者として英文学に興味のある人には知られていようが、晩年『アンダルシーア風土記』(岩波書店1999年)という本を出版されて、あれあれスペイン研究家になっていたのかと驚いて僕はその場で買って読んだことがある。テーマはスペイン海洋文化史といったところだ。正直言うとあんまりおもろくなかったが。
しかし、その本の略歴を見ると、42歳でスペインに定住したとある。英文学の研究からペイン研究に方向転換されたということなのだろうか。前回の記事に書いた堀田善衛もそうだった。スペインに行くと日本ではまったく知られていないが当地では有名なハポネスがかなりおられるようだ。
スペインには、何か、ある種の日本人には、その心を打ち震わせて止まぬものがあるのだろう。永川玲二さんは、家の屋根に自分でベランダをこしらえて、日暮れになると毎日そこに登っては、酒を片手に、グアダルキビール河に沈む夕陽を眺めておられたという、王様の気分だと言って。
いいな~。
僕は、今フリッツ・ラングに夢中になっているので、彼について書かれた本も少しずつ読んでいるのだが、先日、 Paul Jensen 著 "Fritz Lang" という本がアマゾンのマーケットプレイスに出ているのに気づき、海外古書サイトabebooks.com に頼むよりは送料分だけ安いこともあって、注文したら早くも2日後には到着した。送ってくれた方を、ここではki さんとしておこう。

映画研究者の若い友人に、たまたまそのことを話したら、その人を知っているという。へ~
彼は数年前にその ki さんから、楽天でビデオを一本買ったという。ところが、彼はそのとき思い切って、その監督のビデオが他にもないか、あれば譲ってほしいとメールしてみたのだそうだ。すると、なんと返事があって、あるわあるわ30本以上もビデオテープをそれも無料で送ってくれたのだという。彼の研究は、だからそのkiさんとの出会いなくしてはありえなかったという。なんと映画みたいな感動物語なのだ。
そのkiさんに、はからずも今回は僕がお世話になったというわけで、なんと世間は狭いのだろうというよくある感慨に、またふけることになった。(世の中には、映画評論家などという肩書きはつけていなくても、徹底的に映画を見ている人がいるものなんだなあと、そちらの方にも感心したのだが。多分ドイツ映画をそれだけ見ている人は日本にいないですよ、とはその友人の言。)

もうだいぶ前になるが、世界は6人でつながっている、という説がちょっと話題になったことがある。知り合いの知り合いの知り合いの、、、、、とつなげていくと6人(6次/six degrees)で世界のどんな人のところにも行き着くという。知り合いが100人として単純な計算をすればあっというまに天文学的数になるからまあ計算上は可能だが、それは風が吹けば桶屋が儲かる式のこじつけで、実際そんなことがあるだろうかと思っていたが、あながち机上の空論というわけでもないのかもしれない。
ダンカン・ワッツという科学者が『スモールワールドネットワーク』(阪急コミニュケーションズ 2004年刊)という本の中で、その「6人説」を検討している。コンピューターウィルスがなぜあっと言う間に世界中に広まるのか(トロイの木馬なんてのもあった)、感染病はなぜたった一人の感染者から全国に広まってしまうのか(サーズのときの騒動を思い出した)などなど、現代のネットワークを数理学的に研究している。その理論の中核がスモールワールド「6人説」というわけだ。ただし、これは「知り合い」というところが大事で、友人だと狭いサークルに閉じ込められてしまって外に広がらない。うすい関係の方が「強い」ということらしい。

だから、わがブログを読んでくださっているあなたも、探っていくと実は僕のお知りあいなのかもしれないのだと思うとなんだか愉快な気にも、はずかしい気にもなってくるのが妙におかしい。
関東大震災時に流言蜚語によって6000名にもおよぶ在日朝鮮人が殺された。その人々を追悼し、その記憶を風化させまいとして、毎年9月第一土曜日に、旧四つ木橋たもと(墨田区八広)で、市民による追悼集会が開かれている。今年で24回目になるという。9月3日、また、今年もその追悼会に参加した。今では、僕も年に一度この荒川河川敷に来るのが恒例になった。

今年も150名ほどの参加者が、河川敷につくられたささやかな祭壇に向って鎮魂の祈りを捧げた。今年はそのときの体験を直接語られる人々の参加はなかった、そのときから82年が経過しているのだ。いまでは、その子どもや孫が聞かされた当時のようすを語られるだけだ。

僕らは、こうしてもうその体験を直接語る人がいなくなった歴史をどうやって記憶していけばいいのだろう。直接体験の生々しさは、とうてい語り継がれえないものだろうけれど、それでも、その語りを記憶したものが、さらに語り継ぐ以外にどんな道があるだろう。文章に残せばそれが歴史だとでも思う人には、それは記録にすぎないと答えたい。

その語り継がれる歴史を支えているものは、そのできごとがおきたその土地なのではなかろうか。土地に住む精霊がその語りを励ましているのではないだろうか、と僕は思う。
僕らの戦後史が、被害者としての語りから成っていることがよくそのことを示していないか。6月23日沖縄戦終結(本土ではこの日のことはほとんど記憶されていないが、沖縄では最も重要な記念日ではなかろうか)、8月6日広島原爆忌、9日長崎原爆忌、15日終戦記念日。
僕らの記憶に今なおとどまっているのは、戦争被害者としての記憶だ。それは、沖縄も、広島も長崎も、そこに今も人が暮らし、いまなお、その悲惨な体験を直接語る人々がいるからだ。土地と記憶が結びついているからだ。

戦争の記憶が、被害の記憶だけになりがちなのは、僕は宿命だと思う。加害の記憶は、もうその土地は、加害者の住まぬところとなっているから。中国、朝鮮、アジア各国で日本人が引き起こした残虐な加害行為も、その土地を離れた加害者にとっては、その行為を問う人々から離れてしまっては、語りたくない行為をわざわざ語る必要もなければ、それを求められることもないわけだ。

僕らにとって、中国・韓国(朝鮮)などから発せられる戦争時の日本の行為への憎しみ(反日感情)を、歴史的事実から来るものとして理解はしても、それを今につながる生きた歴史として捉えることが、もうあまりにむずかしくなってしまった。加害を語る人はもういなくなり、その加害を与えた土地に行ったこともない。それらの一つ一つの加虐行為は、「歴史」の本のなかにしかなく、それらはまったく現実感を欠いている。

この関東大震災時における朝鮮人虐殺事件は、国内で起きた。その事件の現場は、僕らが今は平和な暮らしを営むこの首都東京だった。僕ら日本人が加害者として、その記憶を語り継ぎ、また、語り継ぐことができる、そういう意味では特異な事件の一つなのだ。
僕は、この土地、この追悼会で出会う朝鮮人に罪の意識を感じることはないけれど、(僕は殺していない、そもそもその時はまだうまれていなかった)、歴史とはなにか、多民族に対する差別と憎悪はどこから生まれるか、そいういったことを考え、学ぶべき多くのことをこの事件はいまだもっている思う。

[写真は追悼会の最後を飾る民族舞踊。 河川敷に吹きわたる風にのって、そのにぎやかな音楽は高く空にこだまし、遠い祖国までひびきわたっていくようだった。大地に舞う,その踊りは、いまだ地に埋もれたままになっている死者たちの魂にやすらかな鼓動をおくるだろう。]
僕らが、「日本」とか「日本人」とか言う時に、そこに想定されている地域や人の中に、たとえばアイヌの人々、たとえば在日外国人は入っているだろうか。僕にとってアイヌに対する知識はほとんどゼロ。北海道から北の地図が僕のなかでは空白になっているから、そこには大地もなければ人も住んでいない!おそらくは、アイヌに対する記憶は、集合的忘却と呼んでいいほど、「日本人」の記憶から抜け落ちているのではないだろうか。

最近、たまたまアイヌの文化と歴史について教え、考えさせるいくつかの本に遭遇した。

テッサ・モーリス=鈴木『辺境から眺める』(みすず書房 2000年刊)は、環オホーツク海文化の一翼を占めるものとしてのアイヌの歴史と文化をさぐり、先住民族が後発の国民国家に収奪されていく過程を世界史的文脈で検証している。彼女は、日本人の夫を持つオーストラリア国籍のイギリス人。彼女自身が境界(国境)の存在に敏感ならざるを得ない位置にいるとしても、日本について外国人の日本研究者に教えられることが、かくも多いとはなんとも皮肉なことだ。

知里幸恵(1903-1922)は、アイヌ民族のあいだで口伝えに謡い継がれてきたユーカラの中から神謡13編を選んで、ローマ字で音をおこし、日本語訳を付した『アイヌ神謡集』(現在は岩波文庫)を書き綴った。ところが、その校正作業が終わるのを待つようにして突然、心臓病で他界、享年、なんと19歳と3ヶ月!大正11年、寄寓していた本郷・金田一京助の家でのことだ。
彼女の伝記も出ている。藤本英夫『銀のしずく 降る降る まわりに』(草風館 1991年再刊)。彼女の遺稿集『銀のしずく』(草風館 1984年刊)も読んだ。アイヌ研究者として名高い知里真志保は彼女の弟だ。

これは、もう2年以上も前になるが、トンコリ(樺太アイヌの弦楽器)奏者のOKIのアルバム「NO ONE‘S LAND」(2002年)を聞いた時の衝撃は忘れがたい。【上の写真】 表参道にある「スパイラル」1FのCDショップで見つけて、視聴したときのことだ。
伝統的なアイヌの歌を大胆にアレンジして、はるかユーラシア大陸の音をも受け継ぐ、まさしくこれは、環オホーツク海音楽なのではないかという気がする。僕は、以前の記事で、ここには遠くジプシーの音楽までもがこだましているのではないかと書いた。OKIの創り出した音楽は、現代の僕らにとって耳に心地よいとは到底言えない、それは、つまり、文字通り、ソウル(魂)の震えの音楽だからだ。シベリア・シャーマニズムの教える魂のトランス。
OKIは、同じくアイヌのムックリ(口琴)奏者・安東ウメ子(2004年死去)のCDもプロデュースしていて、このアルバム「イフンケ」も僕に、未知の音楽を教えてくれた。
(OKIついては、Googleで検索しても「沖電気」くらいしか出てこないので、そのHPから、彼の略歴を下に引用しておきます。)

OKI略歴
西村茂樹『大阪で闘った朝鮮戦争ー吹田枚方事件の青春群像』(岩波書店 2004年刊)を読んだ。野田正彰が『みすず』2005年1・2月号の「読書アンケート特集」の中でとりあげていて、僕は遠く離れた故郷・大阪で1952年に起きたその事件について何も知るところがないから、勉強するのにいい機会だと思ったからだ。

著者・西村(毎日放送記者)は20年ほども前から出入りするようになった、大阪・十三(じゅうそう)の焼鳥屋の主人・夫徳秀が、吹田事件の「首謀者」の一人であることをその後知る。そんな機縁もあって事件50周年を機に吹田事件の研究会を発足させるところからこの物語は始まる。この本はまさに事件の探求の物語であって、読者は西村とともに、この事件がどういう事件であったかを知り、この事件にかかわった若者たちの思想と心情を探り、そして、彼らのその後の運命に深い嘆息の思いを持つことになる。ひとりひとり関係者を訪ね、事件の全体像を明らかにしていく、これは歴史のルポタージュであって同時によくできた社会派推理小説ということもできるくらいだ。

そもそも、その吹田事件とはなにか? それは、朝鮮戦争のための兵器調達・修理の基地だった大阪で、「軍需車両を十分間遅らすと、朝鮮人千人の命が助かる」と焦燥感を募らせた在日朝鮮人、学生、労働者たちが反戦集会・デモ行進ののち、吹田操車場になだれ込んでおこした実力行使による反戦闘争、戦後三大騒擾事件の一つだった。起訴された111人は11年後の一審判決で無罪、1972年には最高裁で無罪確定。

この本で僕が知ったことをとりあえず二つ。第一。日本が戦後、武器を製造・輸出しなかった、というのは間違いであって、1950年から55年ごろまで、米軍の発注に応じて武器・砲弾を生産し、それは朝鮮戦争で現に使われていた。それだけでない、その武器・砲弾の部品は、あろうことか、僕が生まれ育った大阪下町のいくつもの町工場で生産されていたのだった!

第二。この事件に関係した若者たちの、その運命と軌跡。たとえば、秦政明。彼は、14歳で敗戦を迎え、戦後、共産党に入党、大阪大学在学中にこの事件に「首謀者」の一人として加わり、大学卒業後、高石友也と出会って「高石音楽事務所」を作るや、フォーククルセイダーズ(「帰ってきたヨッパライ」)、岡林信康、五つの赤い風船、「ハッピーエンド」(松本隆、大瀧詠一、細野晴臣)などを次々とプロデュースし、フォークの幕開けの時代を作った張本人のひとりだった。フォーククルセイダーズの二曲目が「イムジン河」。この曲は、その後、発売中止、その細かないきさつはここには書かないが、2001年には「紅白」でキム・ヨンジャが歌い、復活。今公開中の映画「パッチギ」はこの歌のためにあるような映画だ。映画の中で何度も何度も流されるその歌を聞くたびに泣いてしまう。「イムジン河」に流れる歴史を知って、この歌への思いが一層深くなった。
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