IE9ピン留め
昨2011年夏、群馬県立館林美術館で開かれた「生誕100年 藤牧義夫展」が、今、場所を変えて、神奈川県立近代美術館鎌倉で開催中だ。会期は、2012年1月21日~3月25日。展覧会の題名に新しく「モダン都市の光と影」という副題が付けられてはいるが、展示内容に変更はない。展覧会図録も同一。ただ、同ホームページに、鎌倉での展覧会を前に新たに製作された「年譜」と「文献リスト」PDFへのリンクが張られている。図録の足らざるところを補う内容だ。

館林での藤牧展の入場者数は、仄聞するところによれば、一万一千人を超えたという。地方の小都市での展覧会の入場者数としては、これは大成功というべきだ。会場までの交通の便必ずしもよろしからず、かつ、真夏の暑い時期の開催という悪条件を跳ねのけて、多くの方が藤牧作品を楽しまれた。

また、来たる2月26日(日)のNHK「日曜美術館」では、藤牧の特集が放送される予定だ。展覧会情報のコーナーではいざしらず、藤牧が特集として放送されるのは初めて、のはず。テレビでは、すでに2007年に「美の巨人たち」で取り上げられたことがあるが、これを機会にますます多くの人に藤牧の作品は知られることになるだろう。

2010年秋に出版された藤牧研究の決定版・大谷芳久著『藤牧義夫 真偽』についてはすでに論じた。出版部数はわずか350部。そのわずか350部でさえも売り切るのに、いったい何年(何十年?)かかることだろうかと他人事ながら心配したものだったが、豈図らんや、出版後1年でほぼ9割が捌け、現在残るは35部を切っているという。

駒村吉重著『君は隅田川に消えたのか 藤牧義夫と版画の虚実』(講談社 2011年5月刊)というノンフィクション作品も出版され、また、ネット上でも藤牧について書かれた文章を時々目にするようになった。

僕は、長く、藤牧の名前の前に、「忘れられた版画家」という題辞をつけてきたが、ついに、これは用済みとなったようだ。











今、群馬県立館林美術館(館林市)で「生誕100年 藤牧義夫展」が開かれている。会期は2011年7月16日~8月28日まで。僕は先日、7月24日の日曜日に見てきた。


過去、藤牧義夫の名前を冠した展覧会は、6回開かれた。
①1935年6月25日~27日 「藤牧義夫版画個人展覧会」(神田 東京堂画廊)
②1978年 1月~ 2月 「藤牧義夫遺作展」(銀座 かんらん舎) (2月 館林市民会館)
③1987年 7月~ 8月 「1930年代の版画家たちー谷中安規と藤牧義夫を中心として」(鎌倉 神奈川 県立近代美術館)
④1995年10月~11月 「藤牧義夫 その芸術の全貌」(館林市第一資料館)
⑤1999年 9月~11月 「藤牧義夫 」(阿佐ヶ谷 小野忠重版画館)
⑥2008年 1月~ 2月新春特別展示 「藤牧義夫」(八重洲 かんらん舎)

①は生前の藤牧義夫の最初で最後の個展だったが開催期間はわずか3日。正確な出品目録も残らず、開催のいきさつにも不可解な点が多い。藤牧が亡くったのはこの展覧会からわずか69日後だ。②は忘れられていた藤牧義夫を発掘した記念すべき展覧会。③は初めての公立美術館での開催。④はその副題にある通り、埋もれた藤牧作品を発掘・網羅その全貌に迫ろうとした最大規模の展覧会。⑤は小野館が所有する藤牧作と称する作品展。
しかし、これらの展覧会のうち藤牧没後に開かれた②~⑤までの展覧会の出品作には、別人の手になる贋作、改ざん作が多数含まれていたことが今では明らかになっている。(②から⑤までの展覧会はすべて図録あり)。⑥は藤牧の真作だけの初めての展覧会。

そうして、ついに今回の館林での生誕100年記念展を迎えた。
出品作は、すべて藤牧の真作であって、贋作の疑いのある作品は1点も含まれていない。改ざんによって失われた作品は、それがある場合には当時発行された図版で置き換えて示される。絵巻も前期・後期で展示替えがあるとしても全巻広げての展示だ。全巻広げての展示は13年ぶり、史上2度目。それだけでなく、現在までに知られているかぎりでの藤牧に関するほぼすべての資料・写真が展示されている。これは、現在望みうる最善を尽くした、画期的藤牧義夫展だ。よくぞ、これだけ集めた。

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この展覧会は、鎌倉の神奈川県立近代美術館にも巡回する。2012年1月21日~3月25日。展示内容は全く同一らしい。だから、どちらか近い方でご覧になればよいとしても、もちろん、館林なら、行ったついでに藤牧の生家跡(田山花袋旧居跡の隣!)や彼の遊んだ城沼を散歩してくるという手がある。(ただ、館林は関東でも名高い猛暑地だから夏には不向きかもしれないけれど。)
藤牧の絵巻4巻は前期・後期で2巻ずつにわけての展示。「絵巻隅田川」の展示される8月7日までの前期期間に行かれるのがよい。以前の記事でも書いたが、絵巻は左から右へと描かれた。藤牧自身は絵巻が右から左へと開かれるように装丁しているのは事実だけれど、左から右へと見ることを禁じているわけではなかろう。僕はあるとき左から右へと絵巻を眺めることによって初めてその流れが完全に理解できた。右から左へと見るのは映画を巻き戻しながら見るようなものだ。読者よ、どうかご自分で試していただきたい。

館林も鎌倉も遠いという方は、図録(写真・下の右)だけでも手に入れられてはどうだろう。アマゾンでも買える(送料無料)。オールカラーで印刷も問題ない。藤牧の画集などというものは今まで一度も出版されたことがなく、今後その可能性があるとも思えない。展覧会図録は貴重な作品集だ。ちなみに16年前の④の図録(写真・下の左)は今では入手困難。昨年、たまたまヤフーオークションに出ているのを見かけたが、とんでもない値段なのに、売れていたのには驚いた。
図録を会場で買うと、絵巻を納めたDVDがオマケで付いてくる。(我がYouTube投稿版を棚に上げて言うなら)それは、画像が鮮明でない。あればあったでいいかもしれないが、2回見たいとは思わない。DVDが付いてこなくても残念に思うことはありません。

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これまでに開催された藤牧展のうち、1995年の 「藤牧義夫 その芸術の全貌」(館林市第一資料館)が最大規模の展覧会であったことはすでに述べた。
僕はその展覧会を見ていない。1995年当時、そんな展覧会が開かれていることに気づかなかっただけでなく、そもそも藤牧の名前すら知らなかった。藤牧を知ったのは、その展覧会から1年後の1996年、たまたま手にとった本に出ていた藤牧作「赤陽」を見てからだ。館林での展覧会の図録が出ていることを知って、主催者の館林市教育委員会に電話し、もう在庫はない、と言われたのに、そこを何とか、と粘って1冊送ってもらった。それが、上の写真左の図録。
この図録が僕の藤牧探索の拠り所だった。図録に掲載された作品の実物をできるだけ多く見ること、挙げられた参考文献のすべてを読むこと、それが始まりだった。もし、この図録が手に入っていなければ、藤牧への関心が持続したかどうか心もとない気がする。

この1995年版図録に掲載された100点余りの展示品の内、実におよそ半分近くが今回の展覧会には出品されていないか、真作に差し替えられている。それらは、巧妙な贋作であったり、全く別人の作品が紛れ込んでいたりしたからだが、しかし、別人の手によって、改ざんされたがために、今回出品されなかったというものがある。その中には、1933年の帝展入選作「給油所」という大作が含まれる。(今回の展覧会では当時のカラー図版が代わりに出ている。)短かった生涯の中で、藤牧にとっておそらくは最も嬉しかっただろう帝展入選。その入選作は改ざんされて今はもう失われてしまった。「夜の浅草六区」「出を待つ」(ともに1934年)も、もう元の作品がどんなものだったかわからなくなってしまった。僕は、二つの図録を見比べながら、今さらながら、失われてしまったものへの愛惜の念がこみ上げてくるのを抑えられない。

1995年の展覧会とその図録は、現在からみれば数多くの誤りを含んでいるのであるけれど、だからといってその先駆的業績を過小評価するのは誤りだ。遺族の家から作品を発掘し、関係者に聞き書きしてそれを文字に起こし、年譜を作り、参考文献も網羅した。郷土の若くして逝った才能ある芸術家を顕彰しようとする愛情のようなものが僕には感じられるのだ。
今回の展覧会は、最新の藤牧研究の成果に基づいて、作品を吟味し、それらを集め、豊富な資料も並べた。しかし、だ。
たしかにそれが藤牧の手になるとしても、模写も雑誌のカットも葉書も手紙も版画作品と同じレベルで展示するのは、あまりにメリハリがないのではあるまいか。藤牧は芸術家だ。彼の芸術たる版画作品を中心に並べて、他は資料として一括して並べるという方法があったのではないだろうか。彼の一生の代表作「赤陽」がなぜか隅にぽつんと置かれて、そのため、その前で立ち止まる人が少ない。「赤陽」こそ、藤牧展の絶頂でなければならないのに。
その上、妙に微細な点を詳述するキャプションが付いているかと思えば、大半の展示品には解説なし。少年藤牧が作った父の思い出のための作品集「三岳全集」「三岳画集」もパソコンでその画像が見れる工夫がしてあっても、その再生スピードを変えられないから、文字ページは早すぎて読み取れない。読んでいる途中に次の画面に変わってしまう。あ~読めない、という嘆息を僕は何度も聞いた。かつ、パソコンはたった1台きり。
絵巻をDVD画像にするのもいい考えだ。その画像を会場でも流している。しかし、その画像はプロが作ったとは思えないほど不鮮明であることはすでに述べた。
僕は、この展覧会が藤牧の作品を見る最善の機会であることを十分認め、また、開催にこぎつけるまでに払われた主催者の努力に最大級の敬意を払う者ではあるが、それでもなお、藤牧とその観客へのもう少しの愛情を求める者でもある。


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追記 2011年8月6日
この展覧会の図録は求龍堂という出版社から市販される形で出版されていて、それゆえ、「アマゾンでも買える」ということは本文中に書いた。
僕は、たまたま、今日、そのアマゾンのサイトにこの図録に対する「カスタマーレビュー」が一件出ているのに気づいた。
僕には、その評者がこの本に対してあげるいくつもの欠点は、藤牧の作品群がこうして一冊の本となって世に出た、ほとんど奇跡にも似た出来事を前にすれば、かすんで見える。図録の作り手にもう少しの愛情を求めたい気持ちが僕にもないではないが、大部数が売れるとは思えない中、価格の条件も考えれば、この図録は大健闘というべきだ。星をたった5つしかあげられない制度の中で、さらに2つも減らして3つしかあげない、というのはあまりの節約というものではなかろうか。僕は、百でも二百でも、いや、この空にあるすべての星の数だけ、この本に、あげられるものならあげたい。











だれに頼まれたというわけでもないが、館林での藤牧展へ行かれる方のために会場までの道案内を。
僕は北千住から東武伊勢崎線で、「館林」の一つ先「多々良」まで行き(所要時間80分~90分、860円)、そこから館林美術館まで15分歩いた。東京からは、車でなければこのコースが最も安価かつ所要時間も比較的短い(はず)。
日曜のお昼過ぎだったが、この駅で降りた人は僕の他に1人だけだった。
多々良駅を出たら、駅を背中に直進(南下)、国道(122号)まで出たらそこを左折、国道を歩いて稲荷町交差点を右折。あとは、ただひたすら道沿いに、美術館の案内板が出てくるまで歩く。
美術館までの途中、車以外人にはただの一人も会うことなし。こんな道の先に美術館があるのかなあ。
川の向こうに工場みたいな建物が見えてきた。あれが美術館か。
美術館外観。水に浮かんでるってふうに見せたいんだろうか。
美術館内部。外は直線、中は曲線で構成してるってところがミソなんだろうな。
美術館の前。風に緑なす稲の葉が揺れる。北関東の典型的な風景。僕は大好きだ。
この空と大地を放射能で汚すな。
フランクフルトがなってるこの植物の名前は何て言うんだろう。(翌日調べたら、ガマ・蒲というらしい。コガマかもしれない。)
上と同じく美術館のそば。
美術館から南へ続く遊歩道。
遊歩道の横を流れる多々良川には白鳥の一家が。子どもは灰色だなんて知らなかった。いや、いや、、そうか、これが「醜いアヒルの子」なのか。
遊歩道の終点が多々良沼。美術館から1キロほど。沼を横切るのは、釣り客用の長い桟橋。
桟橋。
さらに桟橋。長い。長すぎる。
日も暮れる。










外見に対する好悪の判断に人は1秒もかかからないのだそうだ。絵画作品の好悪もまたそうだ。すばらしいと思う作品は、見た瞬間、目と心を打つ作品だ。そうでなかった作品は早晩忘れてしまう。記憶にも残らない。いいと思った作品が、時間が経つにつれて自分の中で評価がだんだん低くなる場合がないわけではないが、その逆はない。最初はつまらないと思ったのに、あとから好きになったというような作品は僕には思いあたらない。

栃木市内を歩き始めて、まもなく、博物館として公開されている大きな門構えの旧家に行き当たった。岡田記念館、とある。入場料700円。たじろぐ値段だが、ここを素通りすると他の旧家も素通りすることになる、ここが最初なんだからまずは試しに入っておこう、という気になった。
しかし、敷地内のいくつかの蔵に収められた「家宝」は鎧、陣羽織から香炉、蒔絵、はては食器、火鉢まで、いったいそれを見てどうする、といった類のものばかり。鉄斎、波山もガラスケースの中に鎮座ましましているが、旧家お好みの定番、とりたてて言うほどのこともない。そういえば、さっきからずっと周りに人はいない。やっぱりなあ。

そのうち、門の横に「陽月亭」という札の立つ屋敷の前に出た。受付でもらった案内書には、この屋敷については一行も触れておらず、自慢の蔵があれでは、ここはもう推して知るべし。入るまでもないが、畳の部屋でもあればちょっとそこで休憩していこうと思い直し、門をくぐり、玄関の土間を抜けて、上がり框で靴を脱ごうとした瞬間、何かが目に飛び込んできた。誰かいる、薄暗い奥の間に。

僕はまっすぐその奥の間に進んだ。そこには、タテ1メートル半ほどの大きな絵が壁に立てかけるようにして小さな文机の上に置かれていた。描かれているのは、薪を背負う一人の若い女。この絵がそれだ。

彼女の豊満で堂々とした肢体は小さめの労働着からはみ出さんばかり。画面の左から差す陽の光は、彼女の顔の右半分、両肩、胸、前に差し出された左腕、右太ももを明るく照らしているが、すでに黒く日焼けしたその肉体は、素焼きの土像のようにも見える。
卵型の女性像と三角形をなす薪、背景の丸みを帯びた山野。薪の作り出す模様とそれと一体化した女の着る服の大胆な文様。単純な造形の組み合わせとリズムカルな模様が織りなす構図が、この絵の力強さを支えている。
しかし、なによりも観る者の目を惹きつけるのは、その顔だ。まるで土俗的な仮面によくある内面的な表情は、エネルギッシュな肉体とは奇妙な対比を見せる。目と口は単なる黒い開口部と化していて、感情的な、あるいは個性的な表情を欠いているばかりか、人間的なまなざしを投げかけることもない。しかし、僕には却ってそれが、名もなき働く女性像にある種の神話的存在者としての面影を与えていると思う。人物表現において重要なのは個性を写すことなどではなく、個性など超えたところにある何かしら永遠なもの、宇宙的なものを感じさせる人物像の創造だとでも画家は言いたげだ。

さて、僕は他にも美術作品が置かれているのかもしれないと思い、この「陽月亭」という建物の中を隈なく捜した。岡田家は麻の加工・販売もしていたらしく、そのための大きな機具類がいくつも置かれていたが、その他には古い家具ぐらいしか見当たらない。この絵だけが、他の多くの「家宝」のようには蔵のガラスケースの中に入れられることもなく、まるでどこにも行き場がないかのように、ぽつんとこの建物に置かれているのだった。

上の写真を、正面からではなく、斜めから撮らざるをえなかったのには理由がある。天井からぶら下がる電球のために、正面から撮影すると額縁ガラスに光が反射して、絵の右上を中心に全体の半分近くが写らなくなってしまうからだ。そもそも、なぜ、絵を壁に掛けておかないのだろう、地震でもあれば倒れて壊れてしまいそうだ。(すでに大地震はあったのだけれど)。さらに、絵を詳細に見れば、絵具の小さな剥落、ひび割れが無数におきている。新聞紙に包まれて物置の隅で埃を被っているのよりはましだとしても、この絵がここで丁重な扱いを受けているとは到底思えない。

写真にも写っているとおり、この絵には木の名札が付けられている。「栃木市出身 清水登之画伯」。この絵を購入した当時のこの屋敷の当主は、この画家に対して尊敬の念を持っていたにちがいない。清水登之(しみず とし)は1945年に亡くなっているから、当然この絵は戦前のものだ。購入から70年か80年たって、画家と作品に対する敬愛は失われてしまったように思われる。古い屋敷に置き去りにされたまま、女は僕が来るのを待っていたのだろう。

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この記事は(2)を書きます。
ときどき、知らない町を歩きたくなる。と言っても、あまり遠い所までは行きたくない。日帰りで行ってこれるような所なら、時間も費用もたいしてかからない。
僕は東京の北の方に住んでいるから、足は自ずと北関東に向かう。北千住から東武線、日暮里から京成線、この二つの路線に乗ることが多い。ときにはJRのこともあるし、つくばエクスプレスや舎人ライナーも終点まで乗ったことがある。
群馬、栃木、茨城、埼玉、千葉あたりの古くから続く町を、半日くらいかけて、ゆっくり歩く。それらの町は観光地としてはやや魅力が足りないと思われもしようが、東京からは失われてしまった江戸や明治・大正・昭和初期の建物や風物・伝統が、今なお現役で生きていることがあって、それらを見るのは感動的ですらある。

大消費都市、江戸・東京の近くでどうやって自分たちの生きる道を見つけるか、は北関東の町や村にとっての大きな課題であったように思われる。まず第一は農作物の供給だっただろう。しかし、養蚕による絹織物業、大豆による味噌・醤油などの食品製造業、材木を切りだしての製材業、良質の土を活かしての陶器の生産、雛人形・五月人形・だるまの製作等々、衣食住あらゆる分野にかかわる様々な産業を通して、それぞれの町が個性を発揮して発展してきたのであり、たいていは江戸時代から今も続くそれらの跡を見ることは、新鮮な発見にみちた旅にもなる。

大震災から2ヶ月ほどたった5月半ば、家にじっとしているのにも嫌気がさして、天気のいいのも幸い日帰り散歩に出かけることにした。今回の行先は、栃木市。学生時代に、川べりに蔵の並ぶ風景写真を見て以来ずっと気になっていた町だ。北千住で東武日光線に乗って「しんとちぎ」で降り、そこから日光例幣使街道を歩いて南下、「とちぎ」から帰る予定を立てておいた。滞在時間は5時間くらい。そこで思わぬ発見があったのだが、それを語る前に、まずは栃木市内の「名所」案内を、おおむね北から南へ、歩いた順に。
正面にかかる暖簾には、「創業天明元年(1781年) 油屋傅兵衛 味噌・田楽」とある。通称・油伝(あぶでん)。最初、油屋として創業、のちに味噌の製造を始め、今も続く。このあたり(嘉右衛門町)には他にも味噌蔵がいくつかある。
油伝商店の中。
上の写真の内部。ここで、味噌田楽と焼餅を食べた。メニューはそれしかない。悩まなくてよい。
栃木市の中心部。この建物は、この町出身の作家・山本有三の記念館になっている。江戸末期の見世蔵を改修したという。山本有三の「路傍の石」は小学生の時に読んだ覚えがあるが、その愛用品や自筆原稿には関心なく、素通り。
流れる川は「巴波川」、「うずまがわ」と読む。難読度は最高ランク。ここが僕が学生時代に見た風景写真の場所だった。
左の延々と続く屋敷は、塚田家、今は、塚田歴史伝説館。塚田家は弘化年間(1840年代)から木材回漕問屋を営む豪商、巴波川から利根川を経由して江戸深川の木場まで筏に組んで材木を運んだという。
この塚田歴史伝説館には入った。屋敷内部の蔵の立ち並ぶ風景は、江戸時代さながら。人気テレビドラマ「仁」の撮影があったばかりだと言って、受付の人が写真を見せてくれた。
巴波川を巡る遊覧船の船頭さん。たくみな話術で笑わせ、歴史を語り、最後は船頭歌まで歌ってくれた。
前に流れる川は、同じく巴波川。建物は、横山郷土館。横山家は、麻問屋と銀行を営む明治の豪商。時間遅く、すでに閉館。
200年ほど前に建てられた栃木市最古の蔵の一つという。現在は、とちぎ蔵の街美術館。月曜休館のため入れず。
旧・栃木町役場、現・栃木市役所別館。大正10年(1921)竣工。設計は、町役場の技師として活躍した堀井寅吉。水色がさわやかで役場の固いイメージを和らげている。今なお、現役なのが、すごい。
町の大通りに面した床屋。アール・デコ風。この町には、蔵だけでなく近代洋風建築もかなりの数が残っている。
片岡写真館。創業は明治2年とある。建物はかつての栃木警察署を模したものらしい。


東京の中にいては、東京のことがよく見えないのではないか。
他の地域を圧倒する人口をかかえ、富と権力が集中し、あらゆる文化を楽しむことができ、あらゆる商品とサービスがカネさえあれば容易に手に入る所では、きたいないモノ、危険なモノは遠く、見えない所に追いやられる。原発の事故が起きるまでは、僕は日々消費する電気がどこから来ているのか気にも留めなかった。日本に50基以上もの原発が存在していることも知らなかった。まさに傍若無人、自らの繁栄と安全のみを求めて、遠く離れた過疎地にカネの力で危険を押し付けて平然としていた(いる)わけだ。
あとで取り消したとはいえ、大震災を「天罰」だと発言した作家も兼ねるらしい人物が知事を務め、被災者を愚弄する発言をした後にも、再選されてしまうような都市に住んでいることを大して気にもしていない。
拡大する経済力を盾にわが国を含む近隣諸国と軋轢を起こし続ける大国に苦々しい思いをしても、それと同じようなことを、東京はその周辺地域に引き起こしていることには気づきもしない。自らの欲望に取り憑かれて周りを見る余裕もない。他人のことを言っているのではない、それは、僕自身の自画像だ。
ガリマール社に限ったことではないけれど、フランスの書籍の装丁はなんともそっけない。たしかに美術書、画集、絵本、料理本、ガイドブック、百科事典、辞書などの分野では、厚紙の硬い表紙を持った様々にデザインされた本が主流だが、小説はじめ一般的な本は、たいていは白色かクリーム色の薄い紙の表紙に題名を印刷しただけの「フランス装」だ。ガリマール社も単行本では、100年間、その「フランス装」をデザインを含めて全く変えていない。少なくとも僕の知る限り、こんな国は他にない。

単行本といえば、たいていは、硬い厚紙の表紙にカバー(ダストジャケット/ラッパー)を付けるハードカヴァー本だ。英米ではハードカヴァーで一度出しておいて、さらに売れそうなときには増刷のときに表紙を紙装に変え、紙質も落として値段をおさえたペーパーバック本を出すことが多い。もっと売れそうな本は、版型も小さくしたポケット版になって、ポケット版専門の出版社から出る。日本では、ペーパーバックにする過程は無くて、いきなりポケット版=文庫本になる。フランスにもポケット文庫本はあるが、そもそもハードバックがないのだから、違いは大きさと紙質だけだ。
日本では、書籍の装丁は一冊一冊変える。カバーのデザインは装丁家の腕の見せ所だし、厚紙に布を貼った本だって特に珍しいわけではない。函に入った、それもすばらしくデザインされた函に入った本も少なくない。文庫本にまでカバーを付ける。布装も函も文庫カバーも日本独特だと思う。本は一種の工芸品のような扱いを受けているわけだ。

そっけないフランス装の、薄い紙の表紙は遠からず破れて痛んでしまうのではないかと思うし、現にそうなっている場合が多い。フランス人は買った本は、装丁屋に持ち込んで、自分の好みに合わせて頑丈な装丁にしてもらのだ、と昔どこかで読んだような気もするが、テレビや映画で見かけるフランス人の書棚には、本は買ってきたときのままで並んでいるように見える。一回しか読まないような本をわざわざ立派な装丁に仕立て直すとは思えないし、逆に、フランス装が支持され続けるのは、一回しか読まないような本なら紙装で十分、というフランス的合理主義(節約ともいう)によるのかも知れない。

1923年、シフラン Jacques Schiffrin という男が、プレイヤード社 Les Editions de la Pléiade という出版社を興し、1931年から プレイヤード叢書 La Bibliothèque de la Pléiade という文学全集を出し始めた。その文学全集の編集方針や造本に賛辞を惜しまなかったジッドらがガストン・ガリマールに、資金難に陥ったシフランへの支援を進言、1933年、プレイヤード叢書はガリマール社に吸収され、以後、ガリマール社から出版されることになった。

このプレイヤード叢書の斬新だったのは、古典作家たちのそれぞれの全作品を信頼のおける校訂で、読みやすいような大きさの本で出すというところにあった。そのため、紙はインディアペーパー(フランス語ではパピエ・ビーブル=聖書用紙という)、日本の文庫本の縦だけを3cmほど伸ばした手のひらに乗る大きさ、そして堅牢な革装、という造本になった。右の写真は、僕の持っているわずかなプレイヤード叢書のうちいくつかを並べたもの。左からマラルメ全作品、ヴァレリー作品集2巻、ボードレール全作品、失われた時を求めて全3巻(今は改訂されて全4巻本になっている)。

その後、プレイヤード叢書は着々と数を増やして今では500冊を優に超える。もちろん今なお刊行中。完結することはないのかも知れない。取り上げられた作家の中には作品選集になっている場合もあるが、多くはその全作品を収める。膨大な文章を残したヴォルテールもバルザックもゾラも全集だ。その上、校訂・注釈の厳密さへの評価は揺るぎない。フランス作家だけではなく、外国の作家の翻訳も収めるようになり、小説・戯曲・詩だけなくでなく批評・エッセイ・思想も含めるようになった。
しかし、この叢書の成功の最大の原因はフランス装からはかけ離れた造本にこそあると思う。きっと金持ちにしかできなかっただろう本の装丁がすでに革装されて売られているのだ。(壊れやすいとはいえ函にも入っている。)高価ではあるが、瀟洒で美麗。堅牢にしてコンパクト。

この叢書の刊行され始めたのは、繰り返すが1931年。日本でも、1926年から27年にかけて、円本と呼ばれる1冊1円の、「日本」や「世界」を冠した文学全集、思想全集が続々出る大出版ブームが起きていた。岩波文庫の誕生は1927年だ。旺盛な知識欲を持った中産階級の誕生=大衆消費社会がやってきていた。
フランス・プレイヤード叢書もまた、それら大衆が呼び寄せたものであるように思う。古典の出版という一見後ろ向きな出版、いわば「後衛」の守りと見えるものが、実は新しい読者の欲求に応える最「前衛」での戦いでもあったのだろうと僕は思う。

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外国の出版社の100年について書いておきながら、日本の出版社の100年に触れないのは片手落ちだが、今はただ代表的な出版社の創業年だけをならべる。

中央公論社 1886年 明治19年
新潮社    1896年    29年
講談社    1909年    42年

岩波書店  1913年 大正  2年
小学館    1922年    11年
文藝春秋  1923年     12年

新潮社は創業100年を記念して「全出版目録」を、90年記念にひき続いて1996年に非売品で出している。年表のように年代順編成。古書店でよく見かける。講談社は、昨年2010年、創業100年を記念して、『物語講談社の100年』という社史を出しているようだけれどこちらは見る機会もない。
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